ダグラス・ハーディング「頭がない男」に出会う

ありのまま

本屋で面白い本に出会った。

その本は雑誌のようなサイズで、本棚からはみ出していた。

その”はみ出し具合”が気になって、本を手に取ると「頭のない男」という、ちょっと怖いようなタイトル。

その下には「ダグラス・ハーディングの人生と哲学」の文字。

そして、黒い背景に切り抜かれた”人の頭らしきもの”の中に街や緑、雲や空や、星や惑星があり、近くには右手でノートを書き、左手に手鏡を持ち、その中に白髪の男性の顔が描かれている。

…ダグラス・ハーディングが一体何者なのか?…知らない。

でも、手に取ったこの”一見、怖いような気持ちになる本”を読んでみたくなった。

ダグラス・ハーディングとは誰か?

本を開くと…それは漫画だった。

ダグラス・ハーディング(Douglas Harding、1909年 – 2007年)は、神秘主義者、哲学者で、多くの著作があることで知られる。

実践することで本当の自分自身を知るに至るという、瞑想の現代的な手法を開発した。

彼の瞑想の手法は、一連の簡単な実験を行い、ある物事に対する見方を逆転せざるをえない主観的な気づきを導くという形式で行われる。

これにより、実践者は、宇宙との一体感を実感し、楽しむことができるとされる。 ~Wikipedia~

ザックリ言えばこの本は「わたしとは何であるか?」という一人のイギリス人男性の探求物語。

自分が考えたことについて仮説と実証を繰り返し…時には行き詰まり…。

一生をかけて「わたしとは何であるか?」に向き合い、それを発見した。

そして、さらに、その「わたしは何であるか?」を体験できるように、試したい人には誰にでも行える「実験」としてそれをまとめ上げた。

彼は生前、それを体験したい人にはいつでも「我が家にいらっしゃい」と招いて分かち合っていたようだ。

翻訳者の高木悠鼓氏もアイルランドでダグラス・ハーディングの1週間のワークショップを受けた時、「一桁間違いか」と思うほど安かった…とあとがきに書いていた。

「わたしは何であるか?」を見るのは実は簡単?!

今まで「非二元」であるとか「仏教」であるとか「気づきの瞑想」であるとか…色々と本を読んできた。

自分の本質は「空」や「無」であることは知識としてそれらの本から得ている。

そして、それは厳しい修行をするか、どこかのグルにシャクティーパットを与えてもらうか、一瞥体験という「いつ起こるかわからない気まぐれなもの」によってでしか人生に現れないものなのだと思っていた。

きっと特別な意識状態にある時にそれが訪れるんだろう、と思って、「自分には縁遠いもの」だと思っていた。

でも…、”試したい人には誰にでも行える「実験」”って何?

そんな気楽なもの?

今までのは思い込み?

本を読んでいて、「悟り」や「自分の本質」について今まで本で得てきた知識たちがグラグラと崩れていった。

さらに、本のレビューを見てYouTubeにダグラス・ハーディングの実験がまとめられて公開されていることを知った。

こんなに簡単な実験で「わたしは何者であるか?」を見ることができる?!

YouTubeの「FacelessJapanFilms」のリチャード・ラング氏解説の実験動画を観てみた。(リチャード・ラング氏は「頭がない男」の本の脚本を書いた人)

「実験」と言っても、難しい何かをするのではなく、例えば「指を指す実験」とか、手鏡を使った実験とか、紙袋を使った実験とか…。

それこそ身近にあるもので簡単にできてしまうものだ。

ただ、実験を試す際に重要なことは「今までの先入観を捨て、目の前に見える事実だけを見る」ということだ。

早速、いくつかある実験の中で、まずは「指差し実験」をしてみた。

まずは目の前のものを指差す。

「指を指している先に見える物の色や形を見てください」

わたしの目には机とコップが見えた。

その指している指を今度は下に向けた。

床と自分の足が見えた。

その指をどんどん上にそのまま上げていくと…、膝が見えて太ももが見えて、お腹が見えて、胸が見えて…。

では自分の指を自分の前に持ってきて

他人があなたを見る場所。あなたがそこからみている場所を指差してください。あなたは自分の顔を見ますか?

ここに何かの色や形を見ますか?〜YouTube〜

目の前にこちらを差している指が見えた。

でも、指している方に意識を向けると…。

…あれ?わたしの顔が見えない。

…え??”頭がない”ってこういうこと〜?!

一瞬、混乱した。

ここに目も頬も口も何も、まったく見ません。表現を変えれば、内側を見るとき、私は空っぽさを見ます。

今、私は中心での自分の本質を見ています。つまり、私自身の観点からの私の本質。私的私の本質です~YouTube〜

自分の視界から他人を見ると…、肩の上に顔と頭が乗っているからそれが普通で、「わたしもそうである」と思っていた。

でも、実際には他人の顔を直接見るように自分の目で自分の顔を直接見ることはない。

…今までの経験上、それはできないし不可能だ。

必ず外部の…写真であったり、鏡であったり…、なんらかの物を介してでしか見ることができない。

”毎朝鏡に映った顔”を見て「これがわたしだ」と思い、それが自分の肩の上に乗っていると思い、生活していたけれど…。

よくよく考えてみると、「わたしの顔」と思っているものを直接見たことは一度もない。

「ここに顔がある」と思って手で触れると、感覚はそこにあるけれど…、それと同時に「今朝、鏡で見た顔」をイメージしている。

あれ?…自分の顔って記憶だったんだ!

実験をしてみて…

実験で「わたしは正しくそれを見れたのかどうか?」は正直、わからない。

至福感もなく、恍惚感もなく、拡大したようにも感じなかった。

ワンネスも感じられなかった。

至って普通だったけれど…、日々自分はイメージの顔を首の上に乗っけて歩いていたことに気がついた。

「自分のいつも見ていないところに真実はある」とよく言われるけれど…、まさに「誰もこんなところ気がつかないね」という面白さがあった。

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