仏教に「わたし」は無い?!

プラユキ師とスカイプ面談をしました。

プラユキ師はタイの日本人僧侶で、この本の著者であり、何度か瞑想会や合宿に参加させていただいたことがあるので、「最近感じている自分に対しての違和感」について相談してみよう、と思いました。

最近、わたしの身体の感覚が少しいつもと違う感じがしていました。

目で何かを見る時、まるで一つ一つ写真に写すかのようにジッと見つめては次のものに目線を移す…という感じで、まるで自分の目が「スローモーションで動いているか」のよう。

そして、身体のパーツがすべてが勝手に動いている感じがして、わたしの意識とはどんどん離れていく感覚に不安感が生じて…、「この状態は一体なんなのだろう?」と面談を申し込みました。

「それは『法念処(ほうねんじょ)』の見方に似ているね」とプラユキ師。

「ほ…ほ…、それ、なんですか?」

まったく仏教用語が頭に入ってこない、わたし。

目は目。耳は耳…というふうに身体のひとつひとつを区別して観察していく…というものなのだそうだ。

「いきなりそこにアクセスしちゃったんだね」と。

「わたしの意思とは関係なく、手や身体が動くんです。どれが、本当のわたしだかわからない」と話すわたしに…。

「仏教に『わたし』は無いんだよ」と、プラユキ師。

この言葉、あまりに衝撃的でした。

プラユキ師の瞑想会で手動瞑想で「思考、感情、身体に気づくこと」というふうに指導を受けました。

「気づいているわたし」イコール「観察者であるわたし」が存在するのだと思っていました。

最近、よく読んでいる「非二元」の本では、よく「観察者はいない」とか「ホームには誰もいない」とか書かれているのだけれど…。

まさか、仏教も「わたし」がない…とは…!

「気づきの瞑想」でも本当は「観察者」はいなかったのだと知り、「非二元」と「仏教」が同じことを言っていることをはじめて知りました。

そして、プラユキ師のひとことで、今回の「違和感」の観察者にもなり切れず「違和感そのもの」になって、とらわれていたことに気づいたこともショックでした。

もしプラユキ師がいつも言われる「あるがまま」にそれを見ていたとしたら…、「違和感」は生まれなかった。

それどころか、ストーリーをこしらえ、「特別感」という感覚にも浸っていたような気がします。

眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根という6つの器官(六根)により、感覚が生じて「わたし」が生まれる。

「あるのはただの認識。

これを土台に、この現実世界で活かしていくときに…。

『わたし』を前提とした世界で活かしていくときに、ブッダがそれぞれの人に応じた方便(ストーリー)を使って導いたように、自由に自分を組み立てることが可能になる。

『魂』も方便なんだよ」と。

ふぅ。

「あるがままに観る」って、とっても重要ですね。

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