「戻るべきHome」はなかった…

先日受けたタイの僧侶プラユキ師の面談以来、師がおしゃられた「仏教に『わたし』はない」という言葉がものすごくひっかかっていた。

それまで、わたしはスピリチュアルな本を読み続けていて…。

「ものごとを静かに観察しているのが『わたし』それが本当の自分」「わたしはここに存在する、小さなわたしではなく、大いなるもの(神、いちなるもの、Home、One、純粋意識…表現はさまざま)」「すべてはひとつ。ワンネス」「永遠に続く『今』」「わたしたちの世界は『夢』なのだ」「そもそも生まれてもいないので死もない」「大いなるものは永遠」「時間は存在しない」「『わたし』は幻想」「この世界は1なるものの反映」…。

これらのキーワードが頭を占拠していました。

わたしは、戻るべきHomeが存在し、そのHomeに戻れば永遠の命が存在しているように感じていました。

でも、「仏教に『わたし』はない」と言われたとき、何かが壊れ始めました。

わたしはここ数日、必死になって、仏教の本とスピリチュアルの本を読みあさりました。

まるで”壊れていく何か”を必死に止めようとするかのように…。

そして、ふと気づきました。

「わたしがない」という言葉にショックを受けて、「いや、きっとどこかに『わたし』がきっといるはずだ!」と必死で探し回っている思考だ、と。

そもそもこの個人である「わたし」には、自分が「大いなるものかどうか」だなんてわからないし、「究極は『無』」だともわからない。

「肉体の死のあとはどうなっていくのか?」だなんて、お釈迦様でもわからないのに、わたしにわかるわけがない。

「知っているつもり」にはなれるけれど、経験していないことは、結局はわからない。

わからない。わからない、わからない。

…そう、すべてはわからない。

「わからなくていいんんだ」と思った瞬間、「理解しなければ」と思っていた思考がピタリと止まりました。

「わたし」についてのたったひとつの真実があるはず!

そう思い込んでいて、それが「探求」という行動を生んでいました。

すべては言葉による表現、概念で。

どれが正解でどれが間違っているもありませんでした。

大天使の話と、宇宙人の話と、会社の話を同じレイヤー(層・段階)の話だと思わないように、それぞれ語られている視点が違うだけ。

そして用いる表現が違うだけで、それもそれぞれの個性なのだ。

仏教すらも概念なんだ。

そう感じたとき、プラユキ師が面談の最後におっしゃられた「自由に自分を組み立てることが可能なんだよ」の意味が少しわかった気がしました。

宇宙人も、大天使も、お金の話も、ワンネスも無も「わたし」も、どれもすでに包括されていました。

「戻るべきHome」なんて場所は、どこにもなかったんです。

戻るべきところもなければ、行くべきところもない。

…だったら、いまに居るしかないじゃん(笑)

腹をくくって、いま、この目の前のものを受け入れて、ここを生きるしかないのです。

なんだか、とてもスッキリしました。

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