明日、パートナーと二人、バリ島に出発する。
今回の旅程は、バリ島ウブドに3週間、その後タイで2週間の、トータルひと月ちょっとの旅だ。
1つの旅で2つの国を巡るだなんて、まるで世界一周の一部を体験するかのような感じ。
今まで一度もやったことがないことにワクワクしてる。
最近では新婚旅行に世界一周とかしちゃう人たちもいて、以前よりも海外旅行が気軽にできるようになったと感じる。
「あーあ。わたしも若かったら、新婚旅行に世界一周とかしてみたかったなぁ」なんて呟いたら、「僕たちはいつでも新婚旅行だよ」とパートナー。
…時々、こういう、女の子が喜ぶような発言を平気で言うので、ビックリする。
うれしい反面、わたしは別の意味で、この言葉にとても大きな衝撃を受けた。
…何か今まで大事なものを沢山スルーしてしまっていて、いま、ようやくそのことに気づいて、悔しくなってしまった。
…そんな感じだ。
もったいないことしちゃった!
そういう思いが胸の中に広がり、自責と後悔の念がわたしを襲った。
わたしにとって「新婚旅行」とは文字通り、一回の結婚につき一回の「新婚旅行」そのものでしかなかった。
「新婚」も日常の日々を繰り返し重ねると…、ついつい新鮮味がなくなってきて、十年も経つと「なんとなく家族だから一緒にいる」という感覚になってくる。
でも、パートナーのひとことで、「惰性」になっているのは「わたし」で、彼はそうではなかったことに気がついた。
その認識の違いは意識の違いになって、体験で得られる感覚の差を生む。
例えば、日常的に買い物に行ったりカフェに行ったりすることも「生活のための買い物」「疲れたからカフェで一休み」と思って、それをするのか?
あるいは、これらの一つ一つを「デート」だと思ってするのか?
この二つの感覚の違いは大きい。
実際、「日常の買い物後の一休みのカフェ」を「デートだ」と思って過ごしてみた。
すると、いつもと違う感覚になっている自分に気がつく。
いつもは、時間のほとんど携帯の画面に釘付けで、飲み物もどこまで飲んだのかもわからないくらいなのだが(笑)
これが「デート」かと思うと、パートナーの一挙一動に自然と目がいく。
話をするとき、「何か」を汲み取ろうとその表情を覗き込み、「話の内容を聴こう」と、いつもより耳に神経を集中させている自分がいた。
いつものように携帯を見ていても、同時にPCをを操作するパートナーとの間にある空気感とかも感じたりしている。
いつもは目にも入らない、彼の腕時計の画面の文字までも見えたりして…。
すると、なんとなく「いつもの疲れたから休憩のカフェ」が不思議と新鮮に感じられたりする。
…そうなのだ。
「新婚旅行の気分」は何も一回だけで終わらせる必要もないし。
結婚後も二人で過ごす時間は「デート」にしてはいけないというルールはなかった。
…なのに、知らないうちに「新婚旅行は一回で」とか「結婚を何年も何十年も重ねたら新鮮さを失い、くたびれる」という観念に「そうでありたくない」と抵抗しつつも、どこかでそれを肯定していたように思う。
そのおかげで、「日常」が色褪せていく一方だった(笑)
本当は、「どう定義するか?どう認識したいか?」も自分で決められて。
自分の心に見える風景は自分で作れたのだ!
新鮮に感じさせるのも、くたびれて感じさせるのも、すべてはわたしの心次第だったのだ。
…今まで、すごくもったいないことをしていた。
ああ、54歳でも、70歳でも、80歳でも…永遠に「新婚旅行」も「デート」もできるのだ!
明日から始まるひと月の新婚旅行をめいいっぱい楽しみたい。
記事を読んで本当にそうだと思いました。
毎瞬同じ時間は来ないのに、昨日の続きやさっきの続きみたいな感覚で日常を過ごす。
無意識でやってること多いですね。
同じ繰り返しのようで、その人と明日も同じ時を過ごせるという保証はない。
だから「今を精一杯生きる」ことをどれだけの人が意識してるのでしょうか?
そのように生きて行ったらきっと後悔は少ないのでしょうね。
そんな思いになった記事でした。
ありがとう!!
M.Fujimoto様
コメントありがとうございます。
本当に、いつの間にか自分でも気づかないうちに、「いつもの」みたいな感覚で過ごしてしまっているんですよね。
一つ一つ、丁寧に感じて生きていきたいですね。
それができたら、ものすごく幸せな気がします。