マインドフルネス 気づきの瞑想のやり方で勘違いしていたこと

去年の12月に初めてプラユキ師の瞑想会に参加し、マインドフルネス(気づきの)瞑想を実践し始めてから11ヶ月。

その間には、ほぼ毎月一回の瞑想会に参加し、今年三月の二泊三日瞑想合宿にも参加。

そして、今回11月の3連休に行われた二泊三日の合宿にも参加して、ほぼ「プラユキ師にお目にかからない月はない」というくらい、熱心にマインドフルネス(気づきの)瞑想を実践している。

仏教は相変わらず「よくわからない」けれど、ブッダの教えを瞑想会のたびにプラユキ師から話していただくうちに、何かしら一つづ日常の経験と自然に結びつき、「腑に落ちた」と思うことが多くなり、「順調にわたしは理解できている」と思っていたのですが…。

ナント!わたしはマインドフルネス(気づきの)瞑想について勘違いをしていたことに気がつきました。

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気づきの瞑想の基本「手動瞑想」で手を動かすのはなぜか?

プラユキ師の「気づきの瞑想」に初めて出会った時、かなり衝撃的でした。

初めての瞑想会当日、たまたま隣の会場で音楽の練習をやっていて、瞑想会の間じゅう、ものすご〜く軽快な音楽が流れ続けていました。

「こんな音楽がじゃんじゃん流れ続けているところで大丈夫だろうか?」と心配したのですが…。

プラユキ師の教えてくださる「気づきの瞑想」は周囲の音や動きに関わりなくどこででも「マインドフルネスになれる!」というものでした。

特に、基本の「手動瞑想」は、Youtubeでも紹介されているように、目を開けながら手をパタパタ動かすもの。

今までの「瞑想とは静かで動かないもの」という概念と真逆なのです。

瞑想を一年間やってきて、わたしは手動瞑想をこんな風に理解していました。

流れてゆく時間や思考を、コマ割りしていくために、手を「パッ」「パッ」と動かしていく。

人生を一本の映画フイルムに例えるなら、流れていくフイルムの映像を一コマ一コマに区切っていくと「苦」の原因が見えてくる。

例えば、ここに「Aさんがわたしの足を引っ掛けてわざとわたしを転ばそうとした。いつもこういう嫌がらせをするので、イヤだ。きっとわたしはAさんに嫌われているに違いない。」というストーリーの一連の映像があるとします。

その一連の映像とストーリーの、「Aさんが足を引っ掛けた」という瞬間の一コマだけをチョキンと切り取り、「まるで関係のない第三者が初めてその一コマを眺めるような視点」で眺めてみよう。

すると、前後の文脈(シチュエーション)がなくなると、どういう状況で「その一コマ」の状態があり、その後、そのコマの中の人物がどのような反応や行動をしたのかがまったくわからなくなります。

「わざとわたしを転ばそうとした」のかどうかももわからない。

「いつもこういう嫌がらせをする」という過去の出来事もわからない。

さらに画像の中の二人の関係性も感情もわからない。

この一コマに繋がるストーリー(シチュエーション)は、見る人によって、実はいくつも存在する可能性があることに気がつく。

また、その逆で「今ここ」の画像には、まったく何のストーリーも存在してないことにも気がつく。

「苦」は、「Aさんがわたしの足を引っ掛けた」という「流れていくフイルムの映像」の方にはない。

「過去にも自分にとってイヤなことをされた。だから今回もきっと同じだろう」というストーリーをつけた瞬間、「きっとわたしは嫌われている」と思い、悲しくなったり苦しくなったりする。

起こってきた出来事に対して、今までの経験やものの見方のくせから「ストーリー」を自分で創って、そのストーリーに苦しんでいるのだ。

自分で創ったストーリーなので、気がつけば、いつでも次に繋げるフイルムの一コマを変えることができる。

手動瞑想は、その「ストーリー」が生み出される元である自分の「ものの見方のくせ」に気がつかせてくれる素晴らしいツールだと思っていました。

手動瞑想を継続すると日常がこんなふうに見えてきた

手動瞑想の手の動きの「パッ」「パッ」に合わせて、流れてゆく日常のストーリーと場面をコマ割りする。

その時、「流れる映像とストーリー」と、そこから分断された「一コマのストーリーのない静止画像」ともう一つ。

分断されたことによって立ち上がってきた「一コマ一コマを繋げているフイルムのつなぎ目」の、全部で3つのものがあることに気がつきました。

この「つなぎ目」は、手動瞑想の「パッ」の時に、手の位置を自覚して、コマを切り離し、新しい画像が始まる前(あるいは一コマが終わる時)に認識できるもので、ここには画像はありません。

時間も空間も存在していないので、それまで流れていたストーリーや映像は、ここで一度消えてリセット。

手動瞑想中に色々と思考が働いていても、手の位置を自覚した瞬間だけは「何も無いクリアーな状態」「今ここ」「覚醒」「悟り」「苦しみのない状態」になる。

でも、その状態は長く続かず、次の瞬間には、また前の画像の条件を汲み取るかのような画像が現れ、動き、ストーリーを紡ぎ出す。

動いて、止まって、消える、動いて、止まって、消えるの繰り返しで日常や人生は展開していく。

しかし、流れる映像が一コマの静止画像になり、その画像が消えていく時、「自分は満たされている」と感じるのに、新たに画像が浮かび流れていくとストーリーは展開しだし、何かが欠けているような、まだ不十分ではないような気持ちがわき上がってきた。

一体どうすればいいか、プラユキ師に相談してみると…。

「静止画もストーリーも、どちらも行ったり来たりすればいいんだよ」と答えてくださいました。

マインドフルネス(気づきの)瞑想は、ただ存在していることに気づいていればいい

「両方行き来するといい。それがバランス。片方を極めるとカリスマになりやすいけれど、どこかで必ず破綻してくる」とプラユキ師。

プラユキ師はわたしの理解度に合わせて「両方行き来」という方便を使ってくださいましたが、本当は「行き来するような場所」はどこにもないことに、あとから気がつきました。

「流れる」場所も「コマ割り」の場所も、「つなぎ目」の場所も「存在しているように感じた」というわたしの思考が創った概念に過ぎなくて、実際にその場所があるわけではない。

でも「その場所があるように感じたわたし」を、プラユキ師はそのまま受け止めてくださったのだ。

わたしは、いつもの思考の癖で自覚していないうちに「正しい」「正しくない」という判断をしていました。

「流れるストーリー」は「苦」を生むから正しくない。

切り取った「一コマ」の静止画像の世界や、フイルムの「つなぎ目」のリセットされた「何もない瞬間」は「苦」がないから正しいのだと。

だから、「何もない時間を1秒でも多く伸ばさなきゃいけない!」みたいな目標を、知らないうちにたてて目指していました。

「フイルムのつなぎ目を追求したら、それはマインドフルネスじゃない。サマタ瞑想(集中系の瞑想)になっているよ」と一緒に合宿に参加したパートナー。

ああ。そうだった。

マインドフルネス(気づきの)瞑想は気づくための瞑想だ。

なのに、いつのまにかマインドフルネス(気づき)という趣旨を忘れ、「何もない」ことが正しいのだと思い込んで、そこに執着してハマり込んでいたのです。

流れる映像も、コマ割りの静止画も、つなぎ目の空間も、思考が創った概念。

どんな思考も感情も、それが存在しているということだけ。

そのことに「気づき」を持っていれば、わたしは何も悩む必要はなかったのだ。

感情から解放された瞬間、自由を感じた

2017.11.08
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