2017年11月3〜5日の3連休は「プラユキ師と過ごす瞑想リトリート〜秋の御岳山で二泊三日。伝統的なヨーガもご一緒に〜」に参加しました。
プラユキ師の講話と瞑想にどっぷりと浸かる素晴らしい機会。
さらに主催者「伝統的ヨーガ講師」の田中氏によるヨーガの時間が盛り込まれており、まさに心のと身体のリトリート。
合宿に集まった同じ瞑想を学ぶ仲間の話では、「他の瞑想会はほとんどがおしゃべり厳禁。プラユキ師の瞑想会は師との交流はもちろんのこと、仲間同士の交流もできて、とても和やか」なのだそう。
一日中瞑想を実践することなんてあまりないし、心地よい空間だったこともあり、心がマインドフルネスな状態を保ちやすかった。
心をあるがままに見て、感情のカラクリを知ることができたのが大きな収穫でした。
面談タイムのドキドキから思い出した出来事
この合宿の醍醐味は、合宿中に参加者一人一人にいただける20分の面談タイム。
ずっと心にあった悩みはもちろん、合宿中にふと湧いた疑問、悩み、迷いをリアルタイムで詳しくお話できて、瞑想に対する疑問がクリアーになり、正しい瞑想法を身につけられるところが、いい。
わたしの面談は合宿初日でした。
実はこの瞑想合宿には2回目の参加。
前回の合宿中の面談では何も相談したいことが浮かばなかったので、今回こそは聞きたいことを質問して、貴重な面談タイムを「有意義なものにしたい!」と思っていました。
プラユキ師のお部屋に向かうまで「何か何か…」と考えていたのですが、…まったく何も浮かばず…。
ドアをノックしてプラユキ師の前に座っても…何も言葉が出てこなくて…。
冷や汗がにじんで、耳に心臓の鼓動がバクバク音が広がり、それでも言葉が出ない緊張に頭がしびれてきて、喉が乾き、胸が痛くなってきてしまった。
仕方がないので、今感じていることをとりあえず話し出すことにしました。
「あ、あの。なんだか緊張して話が出てこないです。…きっとプラユキさんによく思われたい!好かれたい!と思っているから言葉が出ないんですね…」
ニッコリと微笑まれているプラユキ師。
その笑顔を見たら、心臓のバクバクが少し落ち着いてきて、ふと今感じている状況と同じようなことを体験したことを思い出しました。
「ほう。話してみて」
パートナーが「欲しい!」と思っていた総額150万円もする「ライカ」カメラとレンズを社長からお誕生日にプレゼントされる、という出来事がありました。
目の前にそのプレゼントの箱を置かれた時、あまりに衝撃的で、受け取る本人でないにも関わらず、隣に座っていたわたしもドキドキ。
目がプレゼントの箱に釘付けになり瞳孔が開きっぱなしで、胸がキューッと締め付けられて、痛くて痛くて。
息苦しくて、喉が渇き、体が硬直して冷や汗が出て、体が小刻みに震えて頭がしびれて…。
それを感じた時、「あれ?」と不思議な感覚になった。
この体の感覚や反応、心の動きが、もっともポジティブなはずの「喜び」がもっともネガティブなはずの「恐怖」と、まるで同じじゃないか?!
さらに、今プラユキ師との面談の時に感じていた不安感にも似ている気がしました。
これってどういうことなんだろう?
ライカの時は、うれしいプレゼントをもらったという「喜び」だった。
あまりの恐ろしさに気を失った経験をした時に感じたのは「恐怖」
そして、今日はプラユキ師を目の前にしても話が出てこない「不安」
それぞれその感情に至るための文脈、シチュエーションを認識しているから「これは喜びだ」「恐怖だ」「不安だ」と感情の区別ができる。
しかし、どうだろう。
「ライカカメラをプレゼントしていただき、喜びのあまりに興奮してその状態になっている」というストーリーがあるとする。
そのストーリーの「ライカカメラをプレゼントされて喜びのあまり興奮して」という部分を取り去り、「その状態になっている」というワンシーンだけをピックアップしてみると。
- 瞳孔が開く
- 胸が締め付けられて痛い
- 息苦しい
- 喉が乾く
- 体が硬直
- 冷や汗が出る
- 体が小刻みに震える
- 頭がしびれる
これらの身体的に起こっている反応が確認されるだけになる。
さらにこの身体反応の奥底を感じてみると、心(かどうかはわからないけれど)に「押し寄せたりうねったりする波」みたいなものを感じました。
でも、波のようなものの動きを見ていても、これが「喜び」とか「恐怖」だとか「不安」だとか、わからない。
仮にこれを「喜び」と名付けても「恐怖」と名付けても、「不安」と名付けられてもまったくおかしくはない。
可能性としてはどの感情の名前をつけるのもあり得る。
一体、「喜び」「恐怖」「不安」という感情はなんなのだろう?
そんなことを考えているうちに、名前をつけないまま、その「波のような動き」は不快な身体感覚と共にどこかへ消えていった。
その体験で、どうやらそれが起こる前のストーリーの文脈がないと、「心の波」が「なんの感情であるのか?」が判断できないことがわかりました。
もしかして「感情の名前」の名付け親はわたし?!
一体、感情ってなんなのでしょうね。
その話をすると、「それは面白い経験をしたね」とプラユキ師。
あるがままを認知することの大切さ
そういえば、パニックの経験があるパートナーは昔「食べ過ぎでお腹が痛くなって冷や汗をかいた」時、パニックになりかけたということがありました。
特別、不安な恐ろしい状況もなかったのに「たかだか食べ過ぎくらいで?普通はそんなので倒れないよ」と思うのですが…。
例えば「何かができなかった」というような場合、身体や心が元気な時は「ドンマイ!」の一言で終わるものが、バランスを崩していたりすると「ああ、わたしってダメな人間だ」と思ってしまったりして、認知を歪めてしまうことがあります。
その「認知のズレ」の経験も回を重ねると、蓄積されデータベース化されて、自動的に身体を守るために反応してしまうことがあります。
その結果、昔のパートナーのように「ちょっとお腹が痛い」という状態に、システムが誤作動してしまい、呼吸困難に陥ってしまうような重大な症状を引き起こしてしまうこともあるんですね。
無意識でいると、ついつい自動的に癖になった反応をしてしまう。
今プラユキ師から学んでいる「気づきの瞑想」は、その自動的な反応から脱するために物事を判断せず、あるがままに見ていく技術です。
この気づきの瞑想のスキルを磨いて「気づくこと」ができれば、今起きている出来事や感情に振り回されることは少なくなる。
「気づけば、次の一歩が選択できる」とプラユキ師がおっしゃるように、今起きてきている出来事からストーリーと心の波に気づくことができれば、自分にとって心地よい感情も選ぶことができる。
それによって、未来も少しづつ心地よいものに変化していくのだ。
感情のカラクリがわかれば自由になれる!
「身体の反応」と「心に押し寄せる波のようなもの」を感じて、その変化の前のシチュエーションを見ながら、それに「感情の名前」を名付けていたのは自分でした。
自分が名前をつけて、今まで蓄積した経験データから導き出して、それに見合った反応していたんです。
まるで感情が自分をコントロールしているかのように。
でも、そのカラクリを見つけてしまったら、急に自由を感じました。
本当は喜怒哀楽どの感情を感じてもいいし、名前をつけなくてもいい。
既存のデータに収められた反応に従う必要もなく、怒ってもいいし、泣いてもいいし、笑ってもいい。
どれも自分にとって心地よいものを選ぶことができる。
「なんだ!わたしはもともと自由だったんじゃん!」
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