本を読む時、「何か新しい考え方」や「知識」を得たくて読書します。
でも、そんな「読書」という場面でも、読む前からすでに「思い込み」が発生しているんですね。
読書以前の「偏った思考の存在」にはじめて気がつき、「これじゃ何も得られないじゃん!」と愕然としました。
新しい本を読み始める前ですら「思い込み」が入っていることに愕然とした!
料理研究家の土井善晴氏の「一汁一菜でよいという提案」という本を購入しました。
食事はすべてのはじまり。
大切なことは、一日、一日、自分自身の心の置き場、心地良い場所に帰ってくる暮らしのリズムをつくること。
その柱となるのが一汁一菜という食事のスタイルです。
という本の帯を読んで興味を惹かれて手に取りました。
そして、最初の「はじめに」にあたる部分を3ページ読んだ時、土井善晴氏の提案に感動し、隣に座っていたパートナーにその感動したことを話しました。
「え?…でも読んだのたった3ページでしょ?」
「ほら。ちょっと読んでみてよ」と、本のページを開いて見せてみた。
「う〜ん。僕は読んでもまったく感動しないなぁ。」
パートナーがこの3ページを読んで理解できたことは、「次の3つだけだ」と言う。
- 生活の基本は食事
- 食事は一汁一菜でもいい
- 一汁一菜は日本の食事の原点
「何に感動しているのか??全然わからない」
この本は、毎日料理をしている女性、あるいは一人暮らしで自炊をしている男性をターゲットに書かれています。
健康的な食生活を送りたいけれど、遅くまで仕事をしていると食事を作る気がしなくて、外食で済ませてしまったり。
面倒臭くって、ご飯に納豆ばかりの食事なってしまったり。
栄養が足りないとサプリメントをとっても「これでいいのか?」と不安になる。
そういう「日常の食生活あるある」なのですが…。
この食事に対する思いが、「キチンと生活できていない」という「後ろめたさ」につながると書かれています。
周りの人も同じなのだから、こんなものだと言い聞かせても、気持ちが晴れるわけではありません。
多くの人が自分の暮らしに自信が持てず、自分の未来に不安を感じるし、まだ大丈夫と思いつつも、気持ちがゆらゆらとして満足しないのです。
なんてことのない日常の「食事」という行為の中に、自信喪失の原因が潜んでいたことにビックリ!
この部分を読んだだけでも、目からウロコ。
しかも、「忙しい時は一汁一菜でオッケー。一汁一菜は手抜きじゃないよ」という土井氏に優しさすら感じていました。
…なのに、パートナーときたら「まったく感動しない」とのたまう。
「はぁ?3つしか理解できない????何言ってんの?!」と。

そんなわたしに、「もう一度、この3ページをよ〜く読んで」とパートナー。
「生活を整えるのは食事だよ。それを整えるには一汁一菜でいいよ。と書いてあるね」
「書いてある」
「でもさ、それって話が大きすぎて論理が飛びすぎでしょ?!」
「飛びすぎ…かなぁ?」
「うん。きっと、その飛びすぎなところを説明してくれているのが、これから続く本文に答えが書いてあるんだよね」
「うん。そうだと思う」
「ここには、これから話すための前提条件が書かれているだけで、理由は書かれていない気がする」とパートナー。
…確かに。
「生活の基本は食事」だから「生活を整えるのは食事」ということは、なんとなく結びつく。
でも、「食事を整えること」と「一汁一菜」は直接結びつかない。
わたしは「日常に料理をキチンとしようと思っても、なかなか思い通りにはできず、後ろめたい気持ちを持っていた」という文章に共感した。
その「共感」の勢いで、無意識に、今までのなんらかの経験と価値観とを結びつけて「いい話」を妄想。
そして、「飛びすぎ」の行間の間を自己流に読みすぎてしまい、勝手な答えを導き出し、それに感動して酔っていた。
まだ本文がまったく始まっていたないのに…(笑)
「行間読みすぎ(笑)」とパートナー。
それでようやく、気がついた。
「思い込み」「決めつけ」「先入観」「固定観念」「妄想」は物事を正しく見る上で障害物になります。
「それが苦の原因」だと、プラユキ師の講話で何度も話されている。
なのになのに!!!!ああ!
すでに3ページで…。
いや、もしかしたら本の帯を見た瞬間からすでに「妄想マイワールド」?!
自分の愚かさっぷりに驚きまくりだ。
ほぼ自動的に「思い込み」の魔力に取り憑かれて、すでにどっぷりとハマってしまっていただなんて!!
恐ろしいくらい「思い込み」の魔力は強いね。
しかも、超自然!!
これじゃ、せっかく「土井氏の思想に触れよう」としているのに、先入観バリバリで読書しても、結局は都合のいい解釈して終わり。
人間関係だけじゃなくても、ものを持つ時、本を読む時…。
気がつかないうちに魔がしのびよって、強力な魔力にハマって、すでに魔境をさまよっているワケね!
「でも、今気がつけたから、今までと違う読書ができるはずだよ」とパートナー。
「オープンハート(とらわれない)読書法」のポイント
ということで、パートナーが実践しているという「思い込み」にとらわれず読書する方法を聞いてみました。
先入観や固定観念にしばられず読書するには「気づく」ことが大切。
じゃ、どのようにすれば「気づける」のか?
本を買った時に、なぜこの本を購入したのか?を書き留めておくこと。
本を購入した時、あるいは読もうと思った時には、何か「目的」があったはず。(小説の場合は別かも)
たとえば、今回の「一汁一菜でよいという提案」という本の場合。
「1日に30品目」と言われるけれど、それを作る料理研究家の人が、なぜ「一汁一菜でいいよ」と発言しているのか?理由が知りたい!と思いました。
このように、この本から何が学びたいのかを明確に書いておくのが大切。
書いておく理由は、すぐに忘れちゃうから。
忘れちゃうと、今日のわたしのように感情に流されて、目的のものが得られない可能性もある。
しかも、「今なぜこの本を読んでいるのだろう?」と、それすらわからなくなることにもなりがち。
今回、「なぜこの本を購入したのか?」を自分に問いかけた時、「目的」の他に、ひとつの「思考の癖」が見えました。
それは「料理が苦手で、数品しか作れないわたしの味方になって欲しい」という欲求。
もっと言えば、「料理ができないダメ主婦なわたしの心を救って欲しい」という気持ち。
本を選ぶ時、知識的な目的だけでなく、心の奥に潜む「罪悪感」「劣等感」みたいなものを埋めようと「期待」していたことを知りました。
そして、「目的」や「期待したもの」が読書で得られなかった時、失望し、せっかくの読書時間が「無駄な徒労」で終わってしまう。
そうなると、テキトーに読書していることと変わらなく、「本当に土井氏の言いたかったこと」を理解しないまま。
せっかく本を読んでも、新しい可能性に触れることもできない。
でも、あらかじめ自分の「目的」と「期待」を把握していたら、「目的のものは得られなかったけど、こういう考えもあるんだね」と新たな思考の種にもできる可能性もある。
プラユキ師から学んだ「気づきの手動瞑想」では、思考し始めても「手に戻る」ことで、気づくことができる。
それと同じで、本を読む時にも、書かれた「最初の目的」を見れば、戻ることができる。
「期待」に気づいていれば、次に考えることも選ぶことができる。
心を観察して、気づいて、正しく思考する。
正しく思考するとは、感情や思い込みにとらわれないで考えること。
それは「本を読む」という場面でも有効で、オープンハートな(とらわれない)読書法は、読書で「何かを得たい」という場合は特に必要なのではないかと思う。
それは、本に書かれている著者の意見に正しい好奇心を持って読むことにもつながる。
とらわれない読書「オープンハート読書法」
書かれていることを、偏らずにただ「書かれているそのまま」を見ることができれば、その一冊で得られるものの可能性は広がるに違いない。
この土井氏の本から、パートナーの実践している「オープンハート読書法」を試してみようと思います。
そうそう。そういえば、6月18日の次回のプラユキさんの講話は、「思考」についてだそうです。
めちゃくちゃジャストタイミング!(はっ!これも思い込み?!)
プラユキ師の講話を通じて、「思考を正しく使うにはどうしたらいいのか?」について考えを深めてみたいです。