今回の「春の御岳山二泊三日 瞑想リトリート2017〜伝統的ヨーガもご一緒に〜」の参加者は男性10名女性9名。
本当は参加者15名募集のところ、希望者が多く、プラユキ師と主催者の田中智さんのご好意で19名参加できることになったようです。
そんな「狭き門」だった瞑想合宿に参加できることが、とてもうれしい。
二泊三日の瞑想合宿1日目のスケジュール
二泊三日の瞑想合宿は男性2〜4名で一部屋、女性2〜4名で一部屋という感じのお部屋割。
荷物とケータイはお部屋に置いて、大広間に集まります。
14時30分。自己紹介のあと、プラユキ・ナラテボー師による「清めの祈り」でいよいよプログラムスタート。
1日目は仏教講話80分と瞑想指導40分。
夕食をはさんでグループごとに入浴。入浴以外の人は、広間で瞑想実習。
「瞑想合宿」というと、なんだか規律正しく、戒律厳しくみたいなストイックなイメージを抱きがちだけれど、プラユキ師の瞑想合宿は全然違う。
体調のすぐれない人はお部屋で休んでいてもオッケー、疲れた人は就寝時間前でもお部屋に戻ってもオッケー。(もちろん、きちんと報告して行います)
自習時間は、静かに瞑想していてもいいし、歩き瞑想をしていてもいいし、合宿で一緒になった人たちと話しながら手動瞑想をしてもいい。
喉が乾いたらお茶を飲んで一休み。
すべてが、本当にとても自然。

また、今回、合宿に参加されたかたは、皆さんものすご〜く優しくていい人たちばかり。
同じお部屋になったふたりの、わたしのちょうど娘たちと同じ年代の女性たちもすごく自然体で、「親子ほど年齢が違う」ことなんてまったく忘れてた(笑)
おかげで、とても居心地がよく、すごく早い段階で緊張感が解けました。
宿坊にアットホームでゆるやかな空気が流れて、「合宿しにきたぞ!」という意気込みはフーッと抜けて、なんだか楽しい気分。
また、この瞑想合宿の楽しみは、参加者全員に20分づつ、プラユキ師との個人面談の機会が設けられているところ。
面談では悩みを相談したり、瞑想の仕方や不安点などを相談したりできます。
悩みがなくても面談は受けられます

わたしは「何を相談しようか?」と考えてはいたのですが、「これが悩み」というものが出て来ず、面談の時間になって、プラユキ師を目の前にしても、何も思い浮かばず…。
そうしたら「じゃ、何でも思い浮かんだことをお話ししましょう」とプラユキ師。
すると、ふと先日見た夢が思い出されました。
「そういえば、夜見る夢に父が出てきて怖くなったことがありました」
「うんうん。話して」
わたしが岐阜を離れて東京に来たのは、離婚して誰もわたしのことを知らない場所に行きたかったのと、両親と一緒に暮らしたくなかったから。
母も父もとても真面目な人で、正しくて。とても善い人達です。
でも、善い人たちだからといっても、その考えと同調できず、自分を否定され続けて、一緒に住む事が無理だ!ということもあると思います。
それは誰が悪いわけでもなく、価値観がまったくことなるだけなのですが、違う価値観を四六時中押し付けられ続けて一緒に暮らすのはかなり辛い。
離婚した時に「家に戻ってきたら、しっかりお前の事は管理するからな!好き勝手にはさせない」と言われ、その束縛や強引さが怖くて、理由を付けて東京に逃げました。
それでも、お盆とお正月に帰省を義務付けられて。
帰省するたびに、やはり両親の意に沿わなくて、いつも怒られるし、父の機嫌を損ねないように注意しなければいけないし、かなり緊張して、岐阜から戻ると必ず高熱を出して一週間寝込むというのが数年続いたほどでした。
でも、現在は母も亡くなり父だけになり、わたしも歳を重ねて以前よりも柔軟になり、娘を思うが故の親心だったのだと、感謝しています。
それが、先日、夢の中で、父に「岐阜に来たら、しっかりお前の事は管理する!」と、あの時言われた言葉を再度言われて、自由を奪われ、がんじがらめで苦しんでいる自分になっちゃうのかと思ったら、ゾッとしました。
ゾッとした瞬間、夢から覚めて、「はぁ、よかったぁ」とホッとしました。
その不安を話すと、「大丈夫だよ。気づきの瞑想で、以前よりとても現実的になったし。すごく変わったから、お父さんとの関係性も絶対変わるよ」とプラユキ師。
「そうかなぁ…そうだといいけれど…」と、不安なわたし。
その時、急に、お誕生日にパートナーの会社の社長さんから、豪華な鉄板焼きランチをプレゼントしていただいたことを思い出して…。
「あの〜、今の話と全く関連性が無いんですけど、最近、お肉を食べて諸行無常を感じるという面白い体験をしました」と。
「ほう。それはどんなお話なの?」
我ながら恥ずかしいくらい「思いつき」すぎる、まったくトンチンカンな、何の脈絡もまとまりもない話に、耳を傾けてくださるプラユキ師。
「わたし、本当はお肉が苦手なんです。でも、せっかくのご好意なので、豪華な鉄板焼きランチのプレゼントを受け取ることにしたんです」
「うんうん」
「それで、プレゼントを一口一口しっかり味わって、その味をとどめておきたい!って思ったんです」
「うんうん」
「でも…、消えちゃうんです」
「何が消えちゃうの?」
「味が消えちゃうんです。しっかりと噛みしめて、味とか食感とかその時の快感とか、しっかりと記憶して、とどめておこうと思っても…、喉を通り過ぎると、すぐに味を忘れちゃうんです」
「うんうん」
「何度も何度もしっかりと焼き付けておこう!と頑張るんだけど、やっぱり次の瞬間、消えちゃう」
食感も味覚も消えちゃうし、目の前のお料理もどんどんなくなっちゃう。
そしたら、また新しいお料理のお皿が運ばれて来て…の繰り返し。
それがコースが終わるまで何度も何度も繰り返されて、悲しくなったり、どうしてこんな一瞬の味わいのために人は高いお金を払うんだろう?って思っちゃったり…。
逆に、一瞬だから価値があるのかな?と思えたり…。
「これが諸行無常ってやつかぁ、なんて思いました」
「そうだね。諸行無常だね」
日常の嫌な出来事も楽しい出来事も、その時は悲しかったり辛かったり楽しかったりするけれど、どれもやがては過ぎ去っちゃう。
「喉元過ぎれば熱さを忘れる」なんて言葉もあるけれど、今まではそれは「ダメなこと」だと思っていたけれど、実はすごく自然なことのように思えました。
逆に、本当はとどめておくことができない「リアル」をとどめておこうとすることこそが、無理なことで、エネルギーを大きく消耗しちゃう原因なんじゃないか?とも。
「お肉のリアルな感覚は食べ物が喉を通り過ぎた瞬間に消える。後から思い出したりするのは、自分が創り上げたイメージ(架空のもの)なんですよね」
お肉の味がイメージでうまく再現できなかったように、必ずしも記憶が真実とは言い切れない。
「父の言葉が衝撃的だったので、それしか思い出せないけれど。もしかしたら、リアルではもっと違う状況、前後の言葉があったのかもしれないなぁ…。」
「その苦手なお肉はどうだった?美味しくいただけた?」
「はい。とても美味しくいただけました」
すると、プラユキ師は思わぬ言葉をかけてくださいました。
「岐阜に帰る事になったのは、すごくいいチャンスだよ。苦手なお肉を美味しいって食べた時みたいに、お父さんも美味しく味わって食べちゃえばいいじゃない」と。
一瞬、わたしは言われた言葉の意味がよくわからなくて、戸惑いました。
その戸惑いを解きほぐすかのように、プラユキ師は「苦手なお肉も味わって美味しくいただけたのだから、それと同じだよ。苦手なお父さんも美味しくいただけるよ」と。
そうか!しっかりと味わったら、消えちゃうんだ。
食べちゃう。
その言葉に、父が食べ物みたく思えて、笑えました。
なんだか、スッキリした気分。
そして、わたしの思いつきだらけの話が、プラユキ師によって、キレイにひとつにまとまったことにビックリ!!
こうなると、恥ずかしいくらい脈絡の無い「思いつきの話」も、まんざらでもないような気さえしてくる。
逆に「話してよかった!」くらいの気分になっていたりする。
これぞ、プラユキマジック?!
同じお部屋の女性たちも、面談のあとは、顔がものすごくスッキリしていて。
お部屋では、「副作用がないデトックスをした感じで、ものすごくスッキリした!!」という名言まで飛び出していました。
明日は合宿2日目。
朝はプラユキ師と一緒の朝食。(夕食はスカトー寺では食べないのだそうです)
午後は外で歩行瞑想があるので、すごく楽しみです。